Vol.45 斎藤歩「私の演劇と美唄」
「私の演劇と美唄」
俳優・演出家・劇作家 斎藤歩さん
「美しい唄」何ともロマンチックな響きの名を持つこの土地への興味が、「空知」という地域への興味へと拡がり、「空を知る」これもまた意味深い響きに誘われ「空(そら)知(し)る夏の幻想曲(ファンタジー)」という作品を創作したことがあります。まずは当たり前のように、この地域の炭鉱から、真っ黒な石炭を調べることから私の取材は始まりました。2013年ごろだったと思います。何度も美唄に足を運びました。調べれば調べるほど、日本の100年に渡る近代の盛衰が、たった数十年間に凝縮され、そのままそっとそこに置かれているかのような地域であることを感じ始めたのです。
美唄には、今も石炭の露天掘りを続けている炭鉱があることは知っていたのですが、2011年の東日本大震災の後、泊の原子力発電所が操業を停止した後は、美唄の石炭で、奈井江や砂川の火力発電所が空知の電力を賄っていたことに驚かされました。
不思議な写真に出合いました。1959年の美唄市勢要覧「美唄」の表紙の写真。石炭を運ぶゴンドラのようなものが美唄の山側から平野側に走っていたのかと思ったのですが、昭和30年代、山から土を運び、石狩川沿岸に拡がっていた泥炭地を現在の農地に変えていった「客土」という巨大プロジェクトがあったことを知り、そのために空中索道と呼ばれた空中ケーブルが操業していたというのです。山から平地までの4.7㎞の間に33基の鉄塔を建てて、そこにケーブルを張り、ゴンドラみたいなバケットで、1時間に60立米、10tダンプ10台が休まず運び続けていた計算になります。
山を掘って石炭を産出した一方で、山の土を運んで農地を拓く。そんな巨大プロジェクトのお陰で、今、美唄では真白な小麦やお米が穫れていることを知ったのです。石炭の「黒」から小麦の「白」へと私の頭の中が塗り替えられていました。
取材を終えかけていた初夏の頃、知り合いだった一人の農家を訪ねると、青々とした小麦の穂が果てしなく広がっていました。「これ、持って行きな」と、私の目の前でまっすぐに伸びた抱えきれないほどのアスパラガスを鎌で切り取って持たせてくれました。
「空(そら)知(し)る夏の幻想曲(ファンタジー)」の舞台上に石炭を撒き散らしたくて、当時の美唄の劇場の方にお願いすると「いいよぉ」と露天掘りの会社に連れて行ってもらい、大量のピカピカの石炭を頂きました。私より若い世代の石炭を知らない俳優たちは、初めて石炭に触り、声を上げて驚いていました。
舞台上に石炭ストーブを置きたくて、アルテピアッツァの加藤知美さんにダメもとで電話してみました。「あるよ。聞いてみるかい?」と即決で貸していただけることになり、久しぶりにアルテピアッツァを訪ね、カフェに座りました。静まり返ったカフェで珈琲を頂いていると、加藤さんが「安田侃さんいるけど…」とご紹介くださいました。イタリアオペラの舞台装置のデザインを手掛けられたことがおありだと、舞台美術についてのお話をしてくださいました。
安田侃さんの真っ白なイタリア大理石のひんやりとした手触り。真っ黒な露天掘りの石炭。真白な空知の小麦。真っ青な空知の夏空。
美唄での上演は9月でした。その当時の美唄市民会館は、舞台下や、客席の片隅から「リ~ン♪リ~ン♪」とコオロギの歌声が聞こえてくる味わい深い会館でした。今はどうなっているのか?
久しぶりに、美唄を訪ね、あのアルテピアッツァの空間にこの身体を置き、深呼吸がしたくなりました。