Vol.30 磯田 憲一さん「「アルテピアッツァ美唄」の遥かなる旅 安田侃彫刻美術館」

アルテ通信 Vol.30

「アルテピアッツァ美唄」の遥かなる旅

安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 館長 磯田憲一

 一人ひとりの生命の誕生は、人智を超える奇跡とも言えるものだが、同じように、今、私たちが佇む「アルテピアッツァ美唄」と名付けられたこの「場」は、まさに奇跡的に存在する空間と言っても、あながち過言ではない。
 彫刻家安田侃が、ここに旅の荷を下ろしたのは、世間的に言えば、1992年。早くも四半世紀の時が流れたことになる。しかし、日本のエネルギーを支えた炭都美唄の、暮らしの場としての歩みを振り返る時、この「アルテピアッツァ美唄」が持つ、その稀有な価値は、エネルギー政策に翻弄されながらもこの地に暮らし、この地に積み重ねられてきた、人々の喜びや哀しみの歳月を抜きにしては語り得ない。
 この美唄から、全ての炭鉱の灯が消えたのは1973年。炭住街で暮らす子どもたちの学びを支え、ピーク時には、1250人もの児童が在籍した市立栄小学校が閉校したのは1981年のことだ。坑道の地下深く、誇りを持って採炭に勤しんだ炭鉱マンたちはもとより、多くの家族が、心ならずも故郷美唄を離れざるを得なかったという事実。時代に揺さぶられた者たちの涙をしみ込ませ、幾百という生命さえも地底に沈めてきた歴史を抜きにして、今、この場が湛えているものの意味を語ることはできないだろう。何より、彫刻家安田侃自身が、朽ちかけた廃校跡の校庭に木霊する幼稚園児たちの歓声に、アーティストとして衝き動かされるものがあったのだ。
 アートの価値は、生み出された作品そのもので評価の定まるものだとすれば、展示の場は問わず、この地上に作品が存在することで、事足りるはずのものだ。けれども、「アルテピアッツァ美唄」の価値は、置かれた彫刻だけでなく、地底から湧き上がるエネルギーと融合することで生まれた「場の力」が充ちているからこそ、他に類をみない稀有な彫刻空間となっているに違いない。想像してみるがいい。この場から、40数点に及ぶ安田作品が忽然と消えたとしたら、この空間は、例え芝生がいかに整然と管理されていようとも、何処にでもある、単なる広場と化すに違いない。だが同時に、仮にその作品全てを、他の何処かに移転配置したとしても、「アルテピアッツァ美唄」が持つ、佇む人の心を捉えてやまない空気感、故郷に回帰したような安堵感を、彫刻全体が身にまとうことは到底できないのではないか。「名もなき」と言うことを許していただけるなら、この地で営まれてきた一人ひとりの家族の愛おしい日々、そして、この地を去らねばならなかった哀しみの日々の歴史の全てが、今日の「アルテピアッツァ美唄」に力を与えてくれているのではないか。そうだとすれば、「アルテピアッツァ美唄」は、25年前を遥かに越える昔から、「アルテピアッツァ」づくりの旅は始まっていたと言うべきだろう。
 数の論理に擦り寄らない空間、入場料を取らない運営、彫刻に触ることも座ることも自由・・・、そのいずれを取っても、「アルテピアッツァ」は、世界に類例のないミュージアムと言える。
 私たちは、数や量で計るのではない、心に沁みる豊かさの創造に向けた壮大な実践の戦列の中にいる。だからこそ、「アルテピアッツァ」を身近にする美唄市民はもとより、その実践に関わる私たちは、計り知れない喜びにひたることになる。同時に、彫刻家安田侃にとっても、この故郷美唄との再会は、表現者として、この上なく幸せな巡り合いだったと言えるだろう。かつてこの地で、日本のエネルギーを支える矜持を持って汗と涙を流した人々も含め、これまでさまざまに関わってこられた人たちに感謝しながら、このかけがえのない空間を未来に引き継いでいくために、さらなる挑戦を重ねていきたいと心している。