Vol.18 西村 征一郎さん「アルテピアッツァ美唄のつながり」

「アルテピアッツァ美唄のつながり」

座かんさい座長・京都工芸繊維大学名誉教授 西村征一郎

 都市の風景は、自然と人工物で成り立っているが、その役割、ウエイトについても十分な考察が必要だ。なかでもパブリックアートと位置づけられる「創造」が、都市の“キモチヨサ”の潤滑油としての役割をになうと考えている。
 かつての炭鉱の町美唄、人影もまばらな駅前の印象は希薄であった。三井、三菱による町の隆盛時には、職と住、学校も含めて生活(コミュニティ)があったが、北海道の原野の魅力や開拓・発展の札幌とは関わりなく、産業の衰退と共に消滅したと聞く。
 アルテピアッツァ美唄は、この町の廃校になった木造校舎を再利用し、周辺地を野外彫刻公園として活用した自然とパブリックアート(人工物)の演出による共生空間といえる。「アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな『時』を積み重ねてきた」とされ、施設内外の大理石やブロンズの安田侃作品(40数点)展示の他、コンサートや舞踊、講演会が催され、工房での彫刻授業では多数の“生徒”が「こころ」を彫る。
 建築の魅力は遠景のシルエット(姿)と近景のディテール(細部、質感)にあるとされるが、ロンシャンの教会(ル・コルビジェ)では、遠望する丘の上の風景の一要素であり、同時に近寄った時の圧倒的な造形が生々しく記憶に残っている。もちろん、我国の1300年にわたり“美”を発信し続けてきた奈良薬師寺東塔や、戦後の日本の現代建築のシンボルである京都会館(前川国男)も典型的な事例である。
 美唄の安田侃の作品は、山や林があって、木の葉や花、実があるように、岩盤があって玉石のあるように、直感と深い思考の行程を刻むように存在していると感じる。東京や札幌の街中で、人々が作品に触れ、戯れる魅力と美唄の気配は異なる。自然に抱かれ、相互にはほとんど関わることのない作品の数々。笹で囲まれた、又、木の階段の底に地球の一部のような彫刻。旧体育館の大空間に点在させた作品からは、歴史が異なるそれぞれの物語りにつながりを求めたくなる、動線の意識まで作品の領域と思える白い玉砂利の水盤と門型の一連、そしてゆるやかな勾配の芝生の丘の上の門はカフェ窓越しの完結した風景。“熊に注意”の看板を横目に小径に分け入って発見する形。どれも具象ではなく、むしろ幾何学的あるいは生体的(とでも言えるか)であり、完結している。白色と暗色の立体。しかし、ディテールは、わずかなフクラミやテーパー、うねる曲面、ノミ跡の密度、深さ、磨きの対比。結果的に生じる光や影、映り込み。ビアンコ・カラーラの静脈のような石模様に落ちる樹木の影。無機質の素材で有機的(イキテイル)表現“触れたくなる”を目指しているようだ。作品の開口あるいは凹凸は単に虚・実の対比ではなく、巨大な塊から掘り出されたような、あるいは“体液”で満たされた窪みのような生々しい質感をもち緊張感を漂わせている。
 安田侃の作品の数々は、3.11以来、“こころのよりどころ”を失っている私達に不思議な安心感(キモチヨサ)を与えてくれる。それは、人のもって生まれた感性なのか、あるいはパブリックアートが醸すべき本質なのか。
 アルテピアッツァ美唄には、この感動を共にする仲間達のつながりが生まれている。