Vol.15 藤井 克郎さん「一人一人の石を彫る音」

「一人一人の石を彫る音」

産経新聞札幌支局長 藤井克郎

 その日は北国の初夏らしい、さわやかな青空が広がっていた。
 アルテピアッツァ美唄は以前、春先にふらっと訪ねたことがあり、ゆったりとした時間の流れが実に心地よかった。何か機会があったらぜひ取材をしてみたいと思っていたが、7月9日に今年度初の安田侃さんによる「こころを彫る授業」が開かれるという。しめた。これは絶好のチャンスではないか。
 JR美唄駅からタクシーで駆けつけると、頭巾やエプロン姿の受講生が40人ほど、すでにストゥディオアルテで待機していた。午前10時、みんなの前に安田さんが姿を現すと、こんなユーモアたっぷりのあいさつで受講生に語りかけた。
 「今日はみなさん、難しいことはないな、彫れそうだな、という気がして来られたと思います。そんなことはありません。石に心を彫るなんて、この世のものとは思えません。これからみなさんは、どんどん壊すという行為をします。壊れても、どんなに醜くなっても、それがあなたの心です。展覧会に出そうとか、人に見せようとか、下心のある人はあきらめて、自分の心をさらけ出して戦ってください」
 世界で最も美しいといわれるイタリア・カッラーラの白大理石を用いて実施するこの授業は毎月第1土日に2日間、開かれているが、年に2,3回だけ安田さんが講師を務める。それだけに人気は高く、この日は道内はもとより、はるか関西や九州から飛行機で駆けつけた参加者もいた。
 授業はまず、大理石選びから始まる。人の頭の半分くらいの大きさの白い石が机の上に並べられ、一番くじを引いた人から選んでいく。それをルネサンス時代に使われていたのと同じ形という台座に乗せて、ノミとゲンノウで削っていく。「ヤスリやペーパーもありますが、すぐそんな安易な道具に頼らないで、これでがんばってください」と安田さんが発破をかける。
 授業が始まると、基本的に安田さんはほとんど口を挟まない。「あんまり言わない方がいい。自分の心がどうなのかなど忘れてしまう、その忘れるという時間が必要なのです。普通は忘れられないが、彫るという行為が難しければ難しいほど集中して、自分の心を忘れる。無になるんですね。そうして彫った痕跡、削った痕跡の残った石が目の前にある。それはその人の培ってきた人生の感覚なんです。本人は気がついていないが、ちゃんと正直に出てしまう」と安田さん。
 だが初心者に対しては、ノミの使い方の見本を見せることもある。安田さんから「ゲンノウは力を入れないで落とすだけでいい」と言われたという札幌市の会社員、中村靖史さんは、知人に誘われて初めて参加した。「何も考えずにたたいているのが爽快というか気持ちいい。まだまだ先は遠いですが、自分のイメージした形に近づいていると思うとうれしいですね」と話す。
 受講生は思い思いの場所に台座を出して、一心不乱に石を削る。静かな森の中を、カンカンカンというノミの音がこだまする。
 ほとんどノミを入れられない受講生もいた。札幌市の会社員、松本みどりさんは「このままずっと触っていたい。何かもったいないんです」。一方で、一緒に参加した同僚の荒田まゆさんは「何も考えないでがんがん彫っています。無心になれますね」と楽しそうだ。
 遠くから飛行機を利用して駆けつけた参加者にも話を聞いた。兵庫県川西市に住む会社員の岩元たまえさんは、アルテピアッツァ美唄は年に1、2回は訪ねて、一人で1時間も一つの作品の前に座っていることがあるほど、大好きな場所だという。
 「授業はいつか受けたいと思っていましたが、なかなか仕事の休みと日程が合わなくて、ようやく実現しました。でも、こんなに汗だくになるとは思ってもみなかった。暑さで雑念が入りつつ、でも削れると気持ちいいですね」と満足げに話す。
 1日目の授業は午後4時に終了。翌日曜もあるが、2日間で思い通りに「こころを彫る」のは無理というものだ。希望者は石を預かってもらって、また次に来たときに続きを彫ることができる。
 すでに5回目という札幌市の会社員、渡辺ゆかりさんの石は、滑らかな姿になっていた。「最初、へとへとになって帰るとき、安田先生から『あなたの心をお預かりしています』といわれ、以来、2カ月に1回は通っています。今日も先生に『よく触ってみなさい』といわれたのですが、まだぼこぼこしているところがある。まだ余分なものがあるんですね」
 1日目の終了時、安田さんはこんな言葉で受講生に語りかけた。
 「石を彫る音というのは最初は雑音に聞こえますが、だんだん自分のリズムになっていく。石を彫る音は一人一人、個性があって違うんです。明日からは自分の音を聞きながら彫ってください。石が心地いいと言っているかどうか、わかりますから」
 次はぜひ受講生として訪れたい。みんなの充実した顔を見て、そう思った。