Vol.06 石塚 格さん「蒼い時―生と死のはざまで」

「蒼い時―生と死のはざまで」

元読売新聞北海道支社 石塚格

 私の好きな民話に「笠地蔵」がある。老人が売れ残った笠を道端の地蔵様が雪で濡れてはかわいそうだと被せる。すると、家に帰ってどうして年を越そうかと悩んでいる老夫婦の所に地蔵様が餅などを運んでくる。無償の奉仕が幸福をもたらすという物語だ。冬のアルテピアッツァ美唄でことさらこの話が浮かんでくるのはなぜだろうか。
 地蔵菩薩は大地が全ての命を育む力を秘めているように、無限の慈悲で悩める人々を救う仏とされる。安田侃氏は「負けない、勝たない、邪魔しない。散策するうちに、ふっと作品に出合う」と自らの作品のあり方を語る。私は安田彫刻とは「野辺の石仏」と思う。
 5年前の夏、アルテを初めて訪れた私は、「何かある。しかし、わからない」という印象を持った。1973年に芥川賞を受けた森敦氏の小説「月山」の中に「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしない」というくだりがある。この作品は擬死回生というテーマを扱う。主人公は雪深い山寺で一冬を過ごし、春再び里に下りていく。秋から冬、冬から春への季節の変化の中で、生と死、復活という出羽三山信仰の底流に触れるという名作である。
 その冬、私はアルテに通うことにした。年の瀬も迫った頃、日が落ちて帰りかけると、雪の底は青白く、木造校舎から温かな灯りがもれていた。見上げると、澄みきった上天は闇に包まれ、その下に校舎まで濃紺の空が続いている。荘厳な風景に思わず足を止めた。蒼い時、この時間は、逢魔時(おうまどき)ともいわれる。光が姿を消し、闇が訪れる。生と死が交錯する瞬間である。「ここには美しい自然がある」と感じた。
 以来、休日は、ギャラリーの窓際に座り続けた。眼前はひらすら雪である。窓辺で光に溶けるフロストフラワーを見つめ、木々の間で風に舞う雪、時おり切れる雲間から差す光を眺めて、気づいた。何もない世界というのは自らの思い込みにすぎない。ここには大きな地球の営みがある。これを知るためには、この風景と向かい合い感じるしかない。気づくとバス停からの道で雪に埋もれて見えなくなっていた「新生」と「生誕」は、雪解けとともに頭を徐々に出してきた。
 アルテに来た時、最初に出会う「帰門」は人間の原点に戻る場所である。そこから「天聖」、「天モク」、「妙夢」と続く作品を見ていると、人間の生涯が四季の循環と同期にしていることに気づく。「胎内くぐり」のような「妙夢」を抜けることによって、人間は赤子のような無垢の心に戻り、仏三尊を象徴するような「天モク」のある石舞台に遊ぶことで自然と同化する。そして神のよりしろのごとき「天聖」に舞い上がっていく。
 アルテで彫刻を見る時、人々が触れたいという感覚を持つのはなぜだろうか。それはそこに人間の根源的なものにつながる温かさを感じるからだろう。自らと同じ場所に立っていてくれる人に思えてくるのではないか。それと手をつなぐことで、1人で生きているのではないことに気づき、大きな自然とつながる喜びを感じるのではないか。思いやりあうことで温かさは生まれる。そしてその思いは返ってくる。